2016年1月21日木曜日

台湾短編映画オムニバス「10+10」(1)

(1)謝神 (監督:王童)

あらすじ:宝くじに当たった中年。若い男と二人で、山奥の地元の神様にお礼のお参りに行く(だからタイトルが謝神 )。若い男は大金が手に入ると大喜び。随分大変な道のりだがなんとかつくと、お供えものと一緒に映画を上映する(しかも3Dのアバター)。中年が席を外した時に若い男が宝くじ(神に一旦捧げてある)を盗み見ると、400台湾ドルしか当たっていない。若い男は怒ったり泣き崩れたり…


1942年生まれのベテラン台湾人の監督。

わりとオチが弱いと思うが、ちょっと清々しい感じもある。

なんかの長編の一部という感じ。冒頭の会話でそういったことを匂わせられれば
もっとよかっただろうと思う。

例えば、男たち借金を匂わせたり、なんらかの危機を見せた上で、片方は自殺を
考えて最後のお参りであることを、もう一方には言わないでおいている、ちょっとした馬鹿馬鹿しい騒動のあと、なんだかんだで出直す程度の話には、同じ5分でもできたのではないか。

なんか自分で短編とるとしたら、そういう感じの話でつくるかなぁ…などと考えながら見ていたが、結局、最後に若い方が泣いているので、最後までみればなんとなく彼らにいろいろあったことが仄めかされている。

外省人でわりと重めの内容の映画をとってきたそうなので、こういう軽い、音楽に合わせた雰囲気のものをとりたかったのかもしれない。

近年の台湾娯楽映画のダジャレや軽口の応酬に比べると、ちょっとあっさりしている印象だが、歴史的な商業的成功をおさめたアバターを上映しているが400台湾元(千六百円くらい?)しか当たっていない宝くじという対比をみると、長年台湾映画に関わってきたのに、たいして金持ちでもない自分たちの状況や、それを知ってがっかりしてするかもしれない台湾若者たちを、登場人物に仮託してコミカルに描いたのだろう。

神仏が映画を見ているというあたり、あっさりした表現に映画やこれからそれをとっていく、見ていく若い人たちへの温かい眼差しが感じられなくもない。






(2)有家小店叫永久(監督:呉念真)

あらすじ:小さな商店を営む独居の老婆が病院から帰ってくる。高齢で店も流行らず、近所の人たちは優しいものの、自分の店では買い物はしてくれないどころか、自分でも7-11で買い物をしてしまうほど。近所のおじさん(だと思う)と老婆はそこで賭けをする。3日ののちに買い物をする客たちがちゃんとこないなら、もうこんな商売にならない店は閉めてしまってはどうかと。当然流行らないので勝ち目はないかと思いきや、夜中に戸を叩く音が。冥銭(神仏や故人に燃やして捧げる儀礼用の紙幣)を欲しいと子供が言う。賭けに老婆は勝ちそうだ。店はまだ閉められず、しばらく続けられるのだろう。誰もいないのにゆっくりと店の扉が開くラストシーン。その子供は誰だったのだろう?


63歳くらいのベテラン監督&脚本家だそうです

この映画は、語り口が自然で説明くさい部分がなく、受け身になってぼうっとみていても、なんとなく見ているうちに登場人物たちの状況や関係、そういったものが観客にはいってくる。ある意味、台湾ニューシネマ世代の台湾映画的な多く語らない、しずかな語り口ぽいなぁとおもったら、そのまま台湾ニューシネマ世代のひとだった。

非情城市の脚本を朱天文と担当。本省人。こういった人材が台湾ニューシネマに大きくかかわっていたというのは、なんだか当時の映画が、当時の国民党独裁政権の中では様々な天運が重なって、まるで奇跡のように生まれた一つの時代、現代の若い台湾人のもつ台湾人アイデンティティの一つの始まりではないかと思ってしまう(が、あんまり詳しくない…エドワード・ヤンの代表作などは台湾ヤクザが版権を握ってしまっている結果、DVDなどにならないものがあるそうだ。)

店の名前が永久商店なのがまず良い。

台湾はかなり7-11やファミリーマートが多く、個人商店への圧迫は、かなり日本に似た状況ではあるが、台中服務協定への反対の理由には、中国製品だけでなく労働者など流入によって、例えば屋台文化などが破壊されてしまうのでは?などの懸念も、実はあったわけです。

◯◯年老店などと誇らしげに掲げている地元の店の誇りや、周辺の人々のその店への愛着など、そういったものが台湾社会でこれからどうあるべきかということに対する、ある意味台湾の若い世代に共有されているであろう視線がこの映画には出ていると思う。

それが独居老人などの問題と重ねられている。エンディングは素直にとれば、子供は神仏の類。それがこの店を続けさせるためにやってきたと見えるだろう。うがった見方をすれば、老婆は死んでいて迎えがきたのかもしれない。

いずれにせよ台湾人が自国の社会の変化を、愛情と悲しみをもって眺めていることがわかり、またできれば台湾らしさというものが失われないように願っているということだろう。

「子供が冥銭を老婆の店に買いに来た」というのも、台湾人がいかに若い世代を信頼しているか、彼らに自分たちの気持ちが伝わっていると感じているか、その現状が伝わってくる。ひまわり運動など、国民党独裁政権下で育った世代のこの監督は、胸を熱くしてみていただろう。その気持ちが、店の名前にあらわれている。






(3)登場(監督:魏徳聖)

魏徳聖は現在46歳。海角7号(台湾娯楽映画の歴史の中だけではなく台湾映画史で、大きな転換点になったと言っていいだろう作品)の大ヒットの後、セデック・バレやKANOなど、大きなヒット映画を監督や脚本の立場で作り続けている。

この映画は、彼の映画「セデック・バレ」に出演した原住民の一人(おそらく演劇の経験などなかったのでは?)がベネチア国際映画祭で上映に赴くシーンをラストシーンとして、彼の生活や考えを垣間見るモノローグ的なドキュメンタリー作品と言っていいだろう。

映画自体はベネチアでは評判がよくなかったようだが、当時の新聞記者などの批評を検索してみると、やはりこの映画は、台湾の歴史を台湾人が捉える上で、霧社事件がなんだったのかという一つの現代的な台湾人アイデンティティに関わる問題を扱っていると言えるので、台湾に関心がない批評家には粗が目立ってしまったのではないかとは思う。

が、基本長い映画を若い監督がとるとだいたい評判わるいものでは?みたいな話の気もする。

(とはいえ、自分もこれからセデック・バレのDVD見るところです…)

セデック・バレにはジョン・ウーが99.5点つけてるなど…て記事読んで、へーと思っていたら、「セデック・バレ」のプロデューサーの一人だったので、おい!と思った。

まぁ、ジョン・ウーは金かかけてるのにいきなり変な演出ナチュラルに入れてくる監督なので、ちょっとネジくるってるところあるから、映画評に関してはおすぎよりマシ、くらいに思っておいて、自分でDVD見て判断しましょうって方針で。




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